安藤 久(大31・ボート部、仙田ゼミ)氏
- 【企画】
- 会報に広告掲載頂いた方々について、その宣伝も兼ねてメルマガに順番に人物紹介記事を掲載する。その第5弾として、東濃窯業株式会社の代表取締役としてご活躍されている安藤 久さんを紹介する。
- 2022年10月14日(金)11時~12時
- 【インタビュー会場】
- 東濃窯業株式会社内の社長室
- 【インタビュアー】
- 塚本浩三(大30・名古屋支部幹事長)
- 安藤さん大学までの生い立ちを教えてください。
- 1960年生まれ、岐阜県東濃地方の山奥の小さな町である旧恵那郡山岡町に生まれ育った。
交通が不便な僻地なので、多治見市内に下宿して、多治見北高等学校に進学した。入学当初はバトミントン部に入ったが帰宅部になり、下宿生活でもあったので怠惰な生活になってしまい、学業成績が360人中300番台まで落ちてしまった。これではいけないと2年生から真剣に取り組み、3年生後半からはなんとかまともな成績になり、現役で大学に進むことが出来た。
元々は東京六大学のどこかに進みたいと考えていたが、明治大に受かってみると、東京へ行ったら怠惰な生活になってしまうと考え、田舎で授業料の安い(当時年間14万円程度)滋賀大学を選んだ。
合格したら、高校の先輩の岸泰志さんより強引な密着恩着せ勧誘を受け、断れぬままボート部へ入部。 ボート部では結局、対抗エイト(一軍の艇)には乗れなかったが、四回生の夏まで現役でオールを握っていたことは自分なりには最後までやりきったとの思い。又、戸田のオリンピックコース(戸田漕艇場・埼玉県戸田市)で漕ぐ事が出来たのは良い思い出です。 - ボート部時代のことが社会人になって影響したことは何かありますか?
- 大学4年間ボート部を続けることにより、目標に向かって根気よく努力することを学べた。苦しい時はあっても努力していれば必ず良い時が巡って来ると思えるようになった。又、ボート部の厳しい練習のおかげで体力に自信も持て、社会人になってから色々な事に積極的に取り組めたと思う。体力があるからこそ、会社のラクビー部や地域のラクビークラブに参加し、そこで出会った友情を深めたことは今でも懐かしい思い出となっている。
- 大学卒業後はどのような人生を歩まれてこられたのですか?
- 大学卒業後、神崎製紙株式会社(合併により現在は王子製紙株式会社)に入社。
- 尼崎工場操業管理課に配属(2年)、ノーカボン紙の生産計画を担当(1993年当時:全社売上1400億円/年、担当部署売上250億円/年)。
- 勤労課(3年)で、教育訓練・広報など担当。
- 新規事業プロジェクトチーム(1年)として、銀座4丁目の100坪を使った新規事業プロジェクトに携わった。
- 28歳の時、見合い結婚で義父の会社(東濃窯業)への入社が決まった為、退社。
- 現在の会社は、この地区の地場産業である陶磁器関係のメーカーで、マンションや戸建住宅等に使用する外装タイルを製造。燃料や原料の値上がりが激しく、又、エネルギー消費型の業界であるため厳しい状況が続いている。同族の中小企業の場合、次の世代に「家業」をいかに引き続くかが重要と思うので、新しい事業への転換も視野に入れながら事業に取り込んでいる。
- 2013年 代表取締役就任。
- 人生を振り返ってどのような人生でしたか?
- 二人兄弟の次男坊だったので、大学に行かせてもらいサラリーマンとして会社勤めすることが当然と思っていたが、縁あって地元に戻り会社経営にたずさわる事になった。どちらが良かったかは分からないが、生まれ育った地域で生活出来る現状には満足している。
- これから社会へ出る滋賀大生へのメッセージをお願いします。
- 就職して5~6年が、非常に大切な時期であると思う(社会人としてその後の仕事をしていく基礎を形作るため)。入社後は、様々な課題に積極的に勝つ誠実に取り組んで、自分なりの基礎を作り上げて欲しいと思う。
- 今後はどうされますか?
- 「会社をいかに次の世代の人へ引き継いでいくか」が現状の最大の課題。企業は生き物と思うので、時代の要求に合わせて変化していくことも必要。当社の主力製品である外装タイルの需要は縮小の一途なので、これに変わる新しい事業を模索していきたいと思う。
安藤さんへの突撃インタビューを終えて:塚本の所感
■今回のインタビューは、東濃窯業株式会社内の社長室で実施させていただきました。
自宅から15分程度でしかも同じ高校出身、ご出身地の山岡も近いため地元ネタなどで盛り上がる話も多く、愉しいインタビューでした。自分が東京勤務時代に感じた「ここでは自分のような田舎者は暮らせない」という感覚も同じで、地元に戻ることを決められた気持ちも良く分かりました。そのご縁で社長業を務められるというのも「人生には色々あるなあ」と改めて思いました。
今後のことを考えられると「70歳までは第一線で頑張らねば」というニュアンスが伝わり、経営者の大変さが伝わってきました。厳しい業界ではありますが、頑張っていただきたいと思います。
記:塚本浩三(大30)