彦根の思い出
名古屋支部役員の紹介を兼ねて、学生時代の思い出を語っていただきました。
荒木俊雄(大29・バドミントン部)

下宿先は大学裏門から近くの北野神社南西の城町二丁目。大家さんの離れに住みトイレは昔ながらの和式でオツリが来ないポジション取りに苦労しました。銭湯は最寄りの天神湯。朝食は彦ベー(彦根ベーカリー)、昼食は生協食堂、夕食はまる正・開花亭・いづみや等、また下宿から近いりょう・みどり食堂もよく利用しました。夜に一杯飲るのは袋町で頻繁に友加里へ行きました。自分の土台を造ってくれた彦根の四十余年前の思い出深い生活です。

今井綾乃(大58・院41・ 邦楽部・F.C.Fickle)

生協のカフェ「ラグーナ」。そこは私と仲間との思い出の場所。春雨の中で行った新歓の息休め。テスト前に焦って行った情報交換会。ほかの部と開催したクリスマスコンサート。授業を抜け出しての悩み相談。失態を犯した文サ連の反省会。就活の憩い。緊張の面持ちで卒業単位の確認し合い。卒業旅行先を決めた、あみだくじ大会。留学生や社会人学生との語らい・・・等々。「ラグーナ」に行けば、いつもみんながいた。

内田 誠(大31・ヨット部)

自分の大学生活の中心はヨット部であった。ここでは、バイトについて話します。クラブバイトも含めて約20種のバイトを経験した。長浜曳山バイト、高島屋のお歳暮発送バイト、土方、新聞社の選挙前世論調査、工場の深夜作業、バナナ売り、等。どれも印象的であったが、中でも本屋の博文堂さん、音瀬酒店さんには、大変お世話になった。今でも、ガルボさん(袋町)、イザラ(本町)さんで彦根の家族に会える。

榎本尚哉(大25・ヨット部)

12年前仕事の関係で34年ぶりに彦根に住むことになり、どうなってるかな?と昔の市場街を歩いていたら学生時代大好きだったホルモン屋「大関」の看板を見つけました。当時お金がないのに1500円握りしめてよくいったお店です。タイムワープした気分で店に入ると、お店のおばちゃんは当時たまに手伝いに来ていた娘さんが連れていた4,5歳のお嬢ちゃんの現在でした。親子3世代!何とも言えない感動を覚えました。

落合睦司(大30・ソフトテニス部)

松原に下宿し、彦根の街を端から端までミニサイクルで駆け回っていた学生時代。朝は駅前の帆船、昼は学食、夜はまる正のパターンでの行動が多かったと記憶しています。ある夜、自転車で帰る途中、突然、自転車の警官二人に追い駆けられ「何してたんだ」と。「友達と飲んでいました」と答えると、「無灯火は危険だ!飲む金があっったら直しなさい」と一言いって去って行きました。学生に寛大な彦根の街だったんですね。

片岡嘉幸(大25・硬式野球部)

愛国駅から幸福駅までの切符が4年間で1000万枚売れるという北海道ブームの中、5人で青函連絡船に乗った。石川さゆりの「津軽海峡冬景色」が大ヒットする前年の事である。函館でレンタカーを借り小樽を目指したが、途中の余市でウィスキーを試飲したいがため、誰が運転するかで揉めた気がする。礼文島への船で船酔いし「8時間トレッキング」の踏破を断念したのは無念であり、会社をリタイアした今、コロナ収束後に行く心算である。

岸 泰志(大30・ボート部)

やはり自分にとって一番の思い出は1年間の寮生活を経て3年間過ごした“下宿”だろうか。下宿、もうその言葉は最近の学生には死語かもしれない。自分は当時、大学に程近い栄町の通称“矢野マンション”に住んでいた。その当時の多くの学生が個人の家の部屋を間借りしていたが、“矢野マン”は完全個室、それがマンションといわれた所以か。但し4畳半しかなく、共同便所、風呂なし、押入れに足を突っ込んで寝ていたことを思い出す。あー懐かしいー。

塚本浩三(大30・ソフトテニス部)

学生時代のバイトは袋町のしる万。食事付で融通も効く、ご飯はお代わりし放題と良いところでした。ただ冬場で「味噌汁に大根二切れ」という恐ろしくあっさりしたおかずの時がありました。食べ盛りの若者には余りに味気ない料理で。味噌汁で一杯、二杯目は漬物をおかずに…思わず憮然として食べました。「忙しかったから」とうどんを心待ちにしていたものです。この時のおかげで粗食に慣れました(笑)。

土屋敦史(大57・バドミントンサークル)

大学に入るまでお酒を飲んだことがなかった私。新歓コンパで先輩に勧められてグラスに半分だけ入ったサワー。気付いたら新歓コンパは終わり、駐車場で気分よく寝ころんで空をみていた私。あれほど気分よく駐車場に寝ころんで夜空を見たのはあれ以来ないと今でも思います。

土屋貴巨(大54・基礎スキー同好会)

とにかく小田切ゼミ。4回生になると彦根に行くのだからと毎回ゼミOBに会い、先生とはゼミの時間よりゼミ外の時間のほうが長く一緒にいて、楽しみは年に一度のゼミOB会。インタゼミナール大会で山口に行き、発表がうまくいかず、先生の存在の大きさを改めて痛感したことを鮮明に覚えている。バーベキューしたり工場見学に行ったりキャンプしたり。他にも学生生活いろいろあったはずだが、記憶の大半が小田切ゼミという・・・。

挽内健児(大50・ハンドボール部)

今冬、記録的な積雪の彦根ですが、私が1回生の時にも大雪がありました。記憶では約30cm超で静岡出身の私には初体験の積雪量!そんな日でも構わずに後期試験が行われた事に驚愕でした。また当時の彼女が手袋を外した際に指輪(私のプレゼント)を落としたと凶報。彼女の涙に負けて一緒に探し回るも見付かる訳はなく、買い直ししてあげる事に。手袋と指輪は相性が悪いなあとと今でも教訓です(ゴルフ時も指輪外します)。

肥田茂之(大54・文学部)

大学4年間を過ごした堀口荘。6畳1間、何でも共同のアパートは、滋賀大、県大の学生ばかり。みんな仲良しで毎週酒盛り、銭湯もよく一緒に行った。そんな堀口荘の玄関には1枚の新聞が貼ってあった。隣部屋のD君が自転車日本一周旅行をして、でかでかと紙面に載ったのだ。写真はラストランの時に撮ったもの。D君の他に、迎えに行った下の階のH君と私。でも、説明文はこうだった。『旅ではたくさんの出会いがあった…。』

表野宏和(大29・院9・合気道部)

ビール?あんな苦いものどこが旨いんだ?この考えを一掃させたのは、そう、2回生のある暑い夏の日、手渡されたよ~く冷えたビールをグッとあおり、そのコクと味わいに思わず仰天!?そうなんです、そこからビール、否、酒に飲まれるようになったのです。後輩にあおられ、彦根城下で大声で歌いこんだり、ビアホールで電柱に駆け上がり、怖い人に注意されたり、車に乗り込み窓全開にて応援演説をしたりと、若かったですね~?!でも、とてもとても想い出深い何物にも代えがたい6年間でした!!

堀 洋一(大31・ソフトテニス部)

「やけに外が明るいな。今日は天気が良いんだ!」1回生の時の下宿は東向きに窓のある日当たりのよい部屋でした。1月のとある朝、目覚めてカーテンを開けると外は一面の雪景色でした。それまで10㎝超の積雪を経験したことがなかった私は「雪が明るい」と驚いたものです。自転車の車輪半分が埋まるほどの中、足が着かないようバイトに向かったことが懐かしく思い出されます。

山内佳紀(大23・グリークラブ)

入試の合格発表後、さっそく高校の先輩が、軟式テニス部の勧誘に我が家まで来られました。高校時代、一時軟式テニス部に在籍していたことがありましたが、4回生の先輩でもあり、高校時代には面識がありませんでした。その後、先輩から大学で高校の同窓生の会があるとお聞きし、新入会員として参加しました。懇親会の場所は銀座にある高級感の漂う「輪ごん」という洋食のレストランで、慣れないナイフとフォークを使い、おいしい肉料理を堪能した記憶があります。

横井隆幸(大33・オーケストラ)

印象深いバイトのひとつは『新幹線バイト』。降雪対策として「線路上へスプリンクラーで散水する」実験プロジェクトでした。散水量を測定する会社に徹夜バイトとして雇われ、向かった先は関ヶ原!昭和58年と59年の冬です。休憩時間に仮設小屋で暖を取ること、帰りに「かんぽの宿」大浴場に入ることが何よりの楽しみでした。滋賀県北部に降る雪のニュースを見るたび、当時の実験が今でもお役に立っているのか?と思い出します。

米澤正治(大25・院5・グリークラブ)

よく通ったのは“とり源”。コンパでも騒いだが、一人でも呑ませてもらった。ゼミ(松尾ゼミ)のコンパでは、ろくに理解していない本を題材に議論したが、酔いとともに解らぬ者同士で納得した。グリーでは、間を空けずに順に歌い続けたりしたが、三波春夫を歌うと、“とり源”の大将は上機嫌だった。対面で呑む大将からは、彦根弁で何かと説教を受けた。45年経た今もこの説教は続いている。

編集: 名古屋支部広報部会