記: 倉坪和久(大13)
岡田一氏(大3)は、「陵水会名古屋支部支部長」「陵水会理事長」を歴任され、2019年8月に87歳でご逝去されました。ここに足跡を記し、謹んで追悼の意を表します。
たまたま昨秋ご家族より、『岡田一大先輩』の逝去を知らせる私信が届き、すぐ陵水会へ連絡をした経緯からこの稿を書くことになったが、実は荷が重い。自分は卒次10回若輩で、「名古屋支部」バカだった関係でずいぶん可愛がっていただいたが、氏の公職肩書に触れる資格も縁もなく、ただ純粋に私人としてその人柄に惚れ従ったのみだからである。
ちなみに、名古屋で「岡田一さん」の想い出を募れば、五回卒前後の方からすぐ手が挙がるだろうと思う。そのくらい、岡田一さんという方は人望と人気があった。ひと言で言えば、皆の兄貴みたいに慕われていた。
決して威張らず偉ぶらず、あちこちで呑み会が持たれたが、来る者は拒まず、先輩後輩相等しく親しむ光景は、まさに「OB会」の原点そのものであった。皆でたのしくやろうよという家族主義的指向が、「支部長」岡田さんの基本理念だったのではないかと、今にして思う。
そんな場に、ある時、岡田さんが一枚の木板を抱えて現れて、太書で『陵水亭』と大書され自署された。これからはこの場をこう名づけ、もっと広く皆の場にしようよという思いの表出であった。今も続く「陵水亭懇話会」の原点。
そして、幹事長だった後輩の伊與さん(大6)にいともあっさりと「名古屋支部の新聞を創って皆に届けようよ。君、すぐかかってくれ」と命令(?)されて、伊與さんはすぐその年にほぼひとりで『名古屋陵水』第1号を創刊されて、それが今も続いている。
新聞を通じて支部「総会」の案内も形も進化していって、会費も組織的に集めるようになり、今思えば、こうやって東京・大阪などの地域でも「支部」が出来、その総合体として今の「陵水会」全国組織が形成されていった。
実行部隊の自分は、会計の時は年会費を少しでも集めようと、ゴルフ会の場でも集金したりして煙たがれたが、おかげで、全国で一番会費を集める支部になったり、総会の出席者数も全国一番になった。
その岡田さんが全国の「理事長」になられた時は、名古屋の皆が大喜びだった。名古屋から初めて全国OB会の会長を出した、そんな喜びであり、ある種の誇りであった。
その任期中の「創立80周年記念行事」には、幹事長の私と副の岩田氏(大17)とで大型バスを仕立てて、皆で彦根まで賑やかしに行った。そんな名古屋くさい思い出もなつかしい。
他に、岡田さんには「三好」という馴染みのスナックがあり、そこでは「陵水会」を名乗れば格安で遊べるとあって皆で出かけたり・・・。
岡田さんが理事長時代に国立大学改革が始まって、新設の大学理事三名のうち1名は民間から出したい「倉坪君、誰かいい人はいないかね」と相談があって、ちょうど身近に同期の吉野君(大13)という適任者がいたので、推挙したら、そのまま決定してもらったり・・・硬軟あわせて「岡田一さん」の思い出は尽きない。
大先輩、ありがとうございました。
昭和 | 30年 | 3月 | 滋賀大学経済学部卒業(大学3回) |
---|---|---|---|
昭和 | 30年 | 4月 | 中部電力株式会社入社 |
昭和 | 57年 | 7月 | 同支配人 燃料部長 |
平成 | 元年 | 6月 | 同取締役 |
平成 | 3年 | 6月 | 同常務取締役 |
平成 | 7年 | 6月 | 同代表取締役副社長 |
平成 | 10年 | 6月 | 同顧問(平成16年7月退任) |
平成 | 10年 | 6月 | 株式会社トーエネック代表取締役会長 |
平成 | 11年 | 3月 | 同代表取締役会長兼社長(平成17年6月退任) |
この間、平成8年4月から平成12年4月まで、陵水会名古屋支部支部長。平成12年6月から平成16年6月まで、第14代陵水会理事長。
※同じ記事が陵水会年報にも掲載されました