突撃インタビュー 第2弾

三矢誠(大25・水泳部、小倉ゼミ)氏

【企画】
会報に広告掲載頂いた方々について、その宣伝も兼ねてメルマガに順番に人物紹介記事を掲載する。その第二弾として今も“3代目せんべい屋主人”の個人事業主としてご活躍されている三矢さんを紹介する。(三矢さんにおかれましては、2018年10月に滋賀大学にて現役学生向けにリーダーシップ論の講義をして頂いております)。
【訪問期日】
2022年4月21日(木)14時~16時 *工場見学含む
【インタビュー会場】
店舗(株式会社ヤマ伍三矢商店・西尾市一色町)の事務所
突撃インタビュー第2弾 三矢誠(大25)氏
【インタビュアー】
岸 泰志(大30・名古屋支部広報部長)

三矢さんの大学までの生い立ちを教えて下さい。
1955年生まれの今年67才。生まれはお店のある西尾市一色町。もともと実家はここでせんべい屋を営んでいた。小学5年生の時、多発性麻痺症候群になり、7ヶ月入院。3年間の激動禁止ののち、泳げないままに、リハビリの意味もあって中学2年生で水泳部に入部。そこから水泳とのつながりがはじまることになった。中学は地元の中学、高校は県立西尾高校へ通った。高校でも水泳部に入った。その当時の西尾高校は強く、その練習方法を大学入学後の水泳部へ持ち込んだ。
1973年滋賀大学経済学部経営学科入学。水泳部では当時は30名程が在籍しており、3年時にはその主将を務めた。近国体で団体3位になり、優秀クラブになった。中学、高校時代は東海銀行(=現三菱UFJ銀行)の支店長になりたかったが、兄が歯学部に入学したため、次男ではあったがせんべい屋の跡取りとなった。
水泳部時代のことが社会人になって影響したことは何かありますか?
水泳部だけという訳ではないが、運動部や下宿、ゼミなどで培った人脈が社会人になっても非常に活きた。銀行員となった人が多く、お金のやりくり(=資金繰り)には困らなかった。追って、父親の会社(=ヤマ伍三矢商店)へ入ることになるが、その後も同期に人たちの頑張りが自分の励みにもなった。
大学卒業後はどのような人生を歩まれてこられたのですか?
大学卒業後は1977年に(株)京樽(*当時は大3回卒の田中博社長のオーナー企業。1981年東証一部上場)へ入社した。そこで2年間お世話になった。当時の京樽は大卒は滋賀大からしか採用していなかった。25歳になり、父親の経営する(株)ヤマ伍三矢商店へ入社。当時従業員は15名程で海老せんべいの製造と海苔問屋の兼業であった。30歳の時、父親の死去により社長となり、以降37年間社長を務めている。
人生を振り返ってどのような人生でしたか?
今自分があるのは滋賀大学のお蔭だと思っている。ぜひ大学には恩返しがしたい。大学同期の友達の多くが企業へ就職する中で、当時は自分のような個人事業主となった者は少なかった。ただ大学時代の友人には恵まれていたと思っており、個人事業主となってからも苦しい時代もあったが、その時にはいつも友人達だったらどうしただろうと自問自答し、自分のお店の難局を乗り切ってきた。自分の人生、生き方としては、大学時代のつながりがベースとなっており、特に同期の友達とは今でも付き合いがあり、それは自分としては誇れるところである。大学時代の友人というのは利害関係がないため、一生の友人になれると思っている。
これから社会へ出る滋賀大生へのメッセージをお願いします。
大学時代に、できる限り多くの友人を作ることが大切であり、それが将来にわたって絶対活きると信じている。
今後はどうされますか?
自分の子供がまだ小さい(=中学生)のため、彼が大学を卒業するまで(=あと8年)は、この自分の店を切り盛りするつもりでいる。
突撃インタビュー第2弾 三矢誠(大25)氏

三矢さんへの突撃インタビューを終えて:岸の所感

■今回のインタビューはせんべい工場に隣接するお店の中の事務所で実施させて頂いた。
その前に三矢さんにはせんべい工場内も案内して頂いた。そこには総勢10名程の方々が明るく元気に楽しそうに働いておられたのが印象的であった。

突撃インタビュー第2弾 三矢誠(大25)氏

今回突然の岸の訪問にもかかわらず従業員の皆さんには明るく挨拶をして頂いた。その背景には三矢さんの経営理念がしっかり根付いており、具体的な三矢さんの思いとしては、「笑顔があって、幸せを感じられる事業所でありたい」。「従業員退職時に“この会社で人生が楽しかった”と言ってもらえる事業所でありたい」。というものがあり、この理念は企業で働く者にも共用できる、活かせるものであると思う。

記:岸 泰志(大30)

■株式会社ヤマ伍三矢商店
https://www.yamago328.com/