第18回陵水亭懇話会

2019年8月23日(金)に第18回陵水亭懇話会が開催されました。
会場の太閤本店伏見店には、17名が集いました。

【演題】『来る100年と次の100年に向けて―彦根高商の日々を知る―』
其の壱 「その始まりをめぐって」この彦根高商の始まりはいつだったのか?

第18回陵水亭懇話会のレジメを見る

講演者自己紹介

今井綾乃-第18回陵水亭懇話会講演者
彦根高商の研究や100年史に携わっていることから、今回の懇話会の話をいただいた。
学部時代からずっと彦根高商について研究しており、最近は彦根高商生の就職先や、停職した場所を調べている。最初は近江商人系の企業の歴史を調べていたが、「教育に興味があるなら、今まで誰も使ったことのない歴史資料が資料館にあるから、やってみないか?」と勧められて、彦根高商に出会った。誰も今まで見たことがなくて見捨てられたような資料でも、自分が研究することによって蘇ってくることに心が惹かれた。そのため、一度就職はしたものの退職して、今日の研究に至っている。モノに過ぎなかった資料が歴史資料に変わる面白さだけでなく、充実した大学生活を送らせてもらった恩返しとして、研究を続けていければと思っている。
そのひとつとして、100年史事業の編集委員もしている。100年史を大学で作ることはよくあるが、同窓会の力で作ることはめったにないので、編集も発行も大変だが、なんとか実現したいと考えている。

第18回陵水亭懇話会-レジメ
レジメと100年史原稿募集チラシ

前置きとして

お話はまず、「彦根高商の正式名称は”官立彦根高等商業学校”」であり「100年史を大学で作成する例はあるが同窓会で作成することは珍しい」ことから説き起こされました。
レジメに沿って進行しましたが、「文部省直轄の官立高等商業学校は13あり、彦根はその9番目」「高商を母体とする今の大学には、陵水会と同じく当時から続く同窓会があり、高商時代からの場所や風景を表した名前が付いている」という件には、歴史の長さや時代背景を思わず想像!「会費が集まらない、年報を発行しても読んで貰えない」という各同窓会の苦労話や、その対策として「就職支援をしようと同窓会が大学に関わっている」という情報には、(どこも同じなんだなぁと)参加者の皆さんも一様に頷いていました。

次に、滋賀大の経済経営研究所に話が及びました。
彦根高商の「調査課」という組織が何度も名称を変えながら、今に至るのだそうです。実は、2000年代に入ってから、高商の研究動向が「教育史が帝国大学の制度を明らかにするための対象事例として高商を使った時期」から「高商の実情を研究し、学生の活動や教官が何を教えていたのか等の中身を問う時期」に変化。その理由は、「大学の法人化」が進められる中で、大学の存在意義を示すために「自らの原点は何かを辿る」流れが生まれたから。滋賀大でも、彦根高商時代に作成された資料が注目を浴びるようになり、近代史を専門とする先生が経済経営研究所の所長に就任(2002年)すると、資料を整理保存、公開する活動等を通して、彦根高商の研究が盛んになり始めたとか。
この彦根高商の「調査課」の仕事は一貫して、書籍やポスター、地図等を集めて学生や先生のために貸し出すことであったため、資料整理を担当した今日の経済経営研究所の方々は、沢山の資料が残されていることに大変驚いたそうです。

そして、「出所原則」の解説と、レジメに記載された何点かの写真について説明があり、「歴史資料の保存についての展望」に触れて前置きが終わりました。

出所原則とは
出所が同一の記録・資料を、他の出所 のそれらと混同させてはならないという基本原則。
歴史資料の保存について
彦根高商当時の記述にも「資料を陵水会館に展示してはどうか?」という、教官の提言が載っている。次の100年に向けて我々の世代が考えないといけない。

第18回陵水亭懇話会_調査課
(1)調査課の部屋の風景。沢山の書籍の他に、壁にはポスターや地図も貼ってあり、新聞も製本保存されていた。生徒や先生のために貸し出されていた。(2)新聞製本資料に押されている調査課の印。昭和6年3月31日に製本された等の証。(3)新聞製本の表紙。(4)新聞製本は、このように沢山残されている。
第18回陵水亭懇話会_青焼き_陵水会館設計図欄間付
(5)陵水会館で発見された、 (青焼き) 設計図。少しずつ違う箇所のある同じような設計図が何枚もあることから、ヴォーリズ事務所が何度も設計変更に応じたと思われる。(6)陵水会館和室の欄間(実物)。(7)(6)の設計図、本物では判りにくいが、設計図では真ん中に「H」の文字がハッキリ見える。

彦根高商の始まりはいつだったのか?

今回のテーマに正解はなく、「歴史をどのように描きたいか?」という目的によって変わってくる。として、次の3つの例を挙げられました。
※彦根高商の沿革はレジメP3参照
[1] 1923年04月/第1回入学式
[2] 1922年10月/勅令第441号「高商を彦根に設置する」
[3] 誘致運動から考える

[1][2]は考えやすい案だが[3]はなんだろうと思っていると、今まで編纂された学校史には大学の誘致運動に紙面を割いているのだとか。そこから重要な出来事をピックアップすると・・
○1912(大正元)年
滋賀県が高等商業学校の設置を政府に要望(近江商人を生んだ場所であることを背景)。しかし、国の財政上の問題からなかなか認められなかった。
○1919年
時の原内閣が東京教育拡充計画を推進し、滋賀県に第9高等商業学校設置を決定するが、その設置条件として寄附金を地元へ要求。大津、八幡、彦根がその誘致合戦を繰り広げた。

学校史に載っている「彦根による5つの運動(作戦)」。
・高商の設置は、蒲生郡以北七郡のいずれか(ということにしておいて)。
・50名の委員(彦根の有力者)が寄付金集めに回る。
・委員が在阪実業家を説得する(成功した近江商人を訪ねる)。
・犬上郡内有力者による政友会へ鞍替え(当時の政治的な思惑でしょうか)。
・彦根が寄附金48万円と敷地1万6000坪を提供する

今だから言えますが、ドラマのような展開ですね・・

学校史の情報を引き継ぎつつ、新しく発見された資料から判ったこと

1)彦根に決定されたのはいつか?
実は、学校史には「彦根に高商設置が決まった日付」は明記されていないので、1912年(滋賀県が国に始めて要望した年)~1923年(第1回入学式の年)の新聞を丹念に調べたそうです。
京都日出新聞(現在の京都新聞)に次の記事があり、「前日の9日、文部省が滋賀県知事を介して、彦根に内定したことを発表した(1919年2月10日付記事)」、この新聞を信じるなら、彦根高商の始まりは1912年2月9日とも言えそうとか。

2)敷地の候補地について
学校史には、千鳥ヶ丘(現在の県大(旧県短))と中島町(現在地)の2か所しか載っていないが、京都日出新聞には「当初10か所以上の候補地が挙がったものの、住民の反対により3か所に絞られた」という記述があったそうです。

3)寄附金について
学校史には「寄附金48万円を集めたことが彦根の成功要因」「1万円(現在価値約500万円)以上の寄附者26名の名前を記載」「『近江実業新聞1920年11月7日付』には寄附者全ての名前を記載されている」。そして「奔走尽力した有志と逡巡することなく犠牲を払った地方民衆の存在があった」と結んでいるが、民衆の実態には触れていない。
そこで、「民衆が払った犠牲」について知りたくて近江実業新聞を探したところ「近江実業(1920年11月7日付)」を見つけたとか。「記載された寄附者は238名で、金額は48万円ではなく約44万円(現在価値約2億2000万円)だった」「有力者26名による寄附金は全体の約75%にあたる」「残りの25%は彦根の地域住民102名の寄附になる」「(学校史には書かれていないが)住民の中には女性の名前もあり、ひとり約100円(現在価値約5万円)寄附している。(収入源を持たない)当時の女性としては大変な決断だったと想像され、後世に伝えたい」と話されました。

4)学校史について
従来の学校史には、記述についての典拠を示さない慣習があり、滋賀大の場合は資料類もまとめて保存されていなかった。そうした中で、誘致運動の典拠となったと思われる資料『創立座談会記録』が、陵水会館で発見されたとか。これは、彦根高商創立15周年を記念して、当時を回顧する座談会が開かれ、創立関係者や彦根の町長さんたちが話した内容を議事録としたもの。創立をめぐっての資料は、これが唯一の存在だそうです。

創立座談会原稿
『創立座談会記録』は彦根高商創立に関する唯一の資料

地域に支えられて開校した彦根高商のその後

一部は学校史にも書かれているが、ほとんどは今回初めて一般公開される内容です(レジメP4)。と始まった内容も興味深かったです。

○ヘレンケラーの直筆サインがあった。
実は、ヘレンケラー講演会が彦根高商で開催されたようで、その時のサインと思われる。その時のことを報道した新聞の写真もあった。ヘレンケラーが日本全国を講演する中のひとつに滋賀県が、さらにその一つの会場として彦根高商の講堂が選ばれた模様。この時の講演会は、彦根高商の学生や教官だけでなく、一般の人々も参加したようです。

○その他にも講演会がありました。
大学の有名な先生や新聞社の主筆を招いて、講堂で講演会を開催。その折には、彦根の地域方々や中学生たちも参加していたようです。

○彦根高商は図書が多いことで有名だったそうです。
しかも、高商で初めて地域の方々へ図書館を開放しています。実情は判りませんが、地域の教育に貢献しようと志していたことは想像に難くありません。

○彦根高商受験日の報道。
—「彦根の宿屋が(満室で値上げしないよう)料金について協定を結んだ」という記事。 受験当日に弁当を付けます、学校まで車で送ります等々、サービス合戦をしていたようです。
—「成人教育」についての記事。成人教育とは、社会や理科、商業科目について、高商の先生が地域の方々に直接指導する教育内容。
—飲食店についての記事。当時の新聞を読むと、彦根高商生は「付け払い」をしていたが、付けが多くなりすぎて困った食堂側が組合を作って抵抗したようです。食事だけでなく、(夜の)袋町へ行って停学処分になったという記事もあった。
—運動会の記事。写真背景に日傘のご婦人たちが見受けられることからも、地域の方々と交流していたことがよく判る。

第18回陵水亭懇話会の新聞記事
(8)ヘレンケラー来校に関する新聞記事。(9)成人講習に関する新聞記事。
第18回陵水亭懇話会の新聞記事
(10)彦根高商の受験票。現物が残されているのは極めて珍しい、陵水会館で発見された。(11)受験日当日の宿泊料に関する新聞記事。(12)図書館の風景、一般にも開放されいた(卒業アルバムより)。
第18回陵水亭懇話会_卒業アルバム1-定食屋運動会全景
(13)定食屋の風景、学生さんは付け払いができたのですね(卒業アルバムより)。(14)運動会の風景、地元の方の姿も沢山見受けられます (卒業アルバムより) 。(15)彦根高商の全景写真。
第18回陵水亭懇話会_体育会コンサート
歴代の体育会主催コンサートのパンフレット。

気になる就職は?

本科3,138名卒業生の出身地と就職先の割合を出してみると、今とあまり変わらないように見受けられるとか。
→出身地:滋賀(22.9)・大阪(9.4)・京都(8.5)・愛知(8.0)
→就職先:大阪(31.4)・兵庫(11.6)・東京(11.0)・愛知(11.0)・・滋賀(5.3)
但し、地元率を調べると、
他の高商では約6割が地元→彦根は少ない。
就職先も中京・関西圏に挟まれているためか地元には低い傾向。
つまり、学生は全国から集まり全国へ散る様相なので、彦根に良い印象を残して学生を送り出してきたのではないかと。昔から同じなのですね、有り難い限りです。

最後に

以上、学校史から得られた情報に新しく発見された資料を活用して「彦根の地域の人々」という視点から「彦根高商をめぐる人々の様子」を紹介いただきました。

私たちの大学の原点が、「企業の有力者だけではなく地域の人々の力によって誕生した」ことが判れば、「滋賀大学を今の場所から(簡単に)移動させよう」とか「滋賀大学経済学部をなくそう」という発想には簡単には至らないと思う。
そして、今後の時代変遷次第では、同窓会でその歴史を受け継ぐことが大切になり、そのひとつの方法に百年史の意義があると考えている、と結んで終了となりました。 (其の壱:完)

記:横井隆幸(大33)

※今回の報告の参考資料は、阿部安成・今井綾乃「彦根高等商業学校の始まりの始まりへ(1)・(2・完)」『彦根論叢』第406号・407号、2015年12月・2016年3月です。

次回の第19回陵水亭懇話会は、11/23(土祝)です。
【演題】『来る100年と次の100年に向けて―彦根高商の日々を知る―』
其の弐 「彦根高商の教育について」優秀なサラリーマンを養成するために学校が行ったこと

※百周年へ向けてシリーズ化される予定ですが、どの回からご参加いただいても構いません。

※第19回陵水亭懇話会の申し込みページを見る

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