2020年1月25日(土)17時30分より、第20回陵水亭懇話会が開催されました。今回は開始時間を早めての開催となりましたが、会場の北京料理「百楽」名古屋店には、22名が集いました。
【演題】『来る100年と次の100年に向けて―彦根高商の日々を知る―』
其の参 「生徒の進路動向」生徒がどのような進路を歩み、どのような企業へ就職したのか。その特徴や私たちとの連なり。
感想寄稿
~彦根高商の日々を知る~第三回ということで、今回は「就職をめぐって」をテーマに今井講師よりお話いただいた。
冒頭、彦根高商設立の時期に、元中華民国大統領「黎元洪」が訪問されている史実には驚かされる。また、陵水会館に保存されていた書「正誼明道」の言葉の意味をお聞きすると、彦根高商の理念や、近江商人の行動哲学に通ずるものを’勝手に’感じた次第です。
当時の就職状況については、年度別、業種別の進路状況や、就職者のその後の動向にまで踏み込んだ資料をご説明いただいた。当時の社会状況なのか、学生の気質を反映してなのか、転職者の多さに驚きました。また、好不況の波はどの時代でも同じですが、金融恐慌、世界恐慌の折に、他の高商に先駆けて就職率を回復させるべく学校側が努力してきた事実や、国内にとどまらず、満州にまで就職活動エリアを拡大していたこと(今ならばグローバルにと言い換えてもよいかもしれません)から、学校側の彦根高商というブランドにかける思い、プレゼンス向上に向けた熱意を感じとりました。
当時の就職先となる企業名や、業種別推移を見ると、就職先そのものには今と大きな変化はなく、荒波をかいくぐりながら今日に至ることができたのは、学校側の努力もさることながら、就職された諸先輩方々のその業界・企業で継続的なご活躍もあってのことではないかと思いました。
これからの百年は、文字も映像も音もすべてデータとして記録されているので100年史編纂に苦労も少ないと思いますが、過去100年は残された記録や記憶から行間を読み取ったり、推測しながら事実を特定して進めなければならず、大変な活動であることと認識いたしました。講演の中で、ご依頼のあった「部誌」等について、その価値有無は今井講師に委ねるものとして一度、ソフトテニス部OBや現役部員に確認してみます。
丹羽宏和(大34)
レジメに沿ってまとめ
これまでの内容を、簡単に振り返る
第1回目:彦根高商の始まりの様子について
レジュメの表で彦根高商の簡単な歴史を示し、彦根高商の始まりを第1回入学式(1923年)としたが、物事の始まりは、描きたい歴史によってどこにでも置くことができる。
懇話会ではその始まりを、彦根に高商を誘致するために始まった運動(1919年~)におき、高商を彦根に設立するために国から求められた44万円(現在価値で2億2000万円)にあたるお金を、滋賀県出身の有力者だけではなく、彦根の一般の人、とくに女性からの寄付でまかなっていたことを紹介。滋賀大学経済学部は、国立ではあるが、地域の力によって始まったといえる。
第2回目:彦根高商のカリキュラムの特徴
その特徴は、「哲学概論」と「文化史」を必修科目として開講し続けたことにある。これは他の高商にはみられない学科目で、社会の要請の他、彦根という場所柄を背景に、彦根高商がサラリーマンとしての良い人格を生徒に養成するための一環であったことを紹介。
棄てるに捨てられない「古いモノ」
このような彦根高商の様子は、最近まで『棄てるに捨てられない「古いモノ」』として大学に保管されてきた資料から辿った。今回は資料の紹介とあわせて、古いモノが歴史資料として活用されていく様子も報告する。
古いモノのうち、例えば、陵水会が持っているものはこれまで、段ボールに入れられて陵水会館の2階の倉庫に、ただそこに置かれていた。そこにはどんなモノがあったかというと、会計という種類毎に括られた記録や、バラバラな状態で小さな記録から大きな記録まであったりする。
「正其誼不謀其利、明其道不計其功」
一見、何か?よく分からない書もあった。
彦根高商第1回生の卒業アルバムから判ったことは・・・この扁額は中華民国の黎元洪の書。孫文、袁世凱の下で副大総統を務め、第2代・4代の中華民国の大統領になった人物。(開校して間もない)彦根高商を1924年に訪ねた時、揮毫したものだった。その時の記念写真が、講堂か本部事務棟の前で撮られている。中央に黎元洪と奥さん、周りを校長や教職員、生徒が囲んでいる。
この書は、漢の武帝の時代に、董仲舒(とうちゅうじょ)という学者が示した「正誼明道」(せいぎめいどう)という言葉。「誼」は正義の「義」と同意義。この言葉の意味は、「正其誼不謀其利、明其道不計其功」(其の誼を正して其の利を謀らず、其の道を明らかにして其の功を計らず)がもととなっている。「自らの義が正しいか」のみに心を徹して、利欲などを考えることなく、「自らが実践した道は果たして明らかなるものであったのか」に意を用いて、功や徳などに心を馳せることはないという意味とか。前回の話に出てきた、人格陶冶に繋がる言葉と言える。
歴史資料として
これら資料は現在、陵水会館の耐震工事や100年史の編纂のため、滋賀大学経済経営研究所の貴重書庫という場所に置かせてもらっている。
その貴重書庫の様子の写真。左は、陵水会館から貴重書庫に移動直後の状態。右は、それら古いモノを歴史資料として保存し直した状態。ただ綺麗な箱に入れただけではなく、古い記録は湿気や酸性、アルカリ性に弱いので、一般の段ボール箱から、歴史資料を入れる専用の水分を中に入れない、中性紙の箱に入れ替えられた。
箱の中の様子の写真。資料は1つずつ封筒に入れられ、その封筒も中性紙の封筒である。
その右の写真。資料には番号を付した白い短冊を挟み、番号を付した封筒に入れていく。そうすると、資料に番号を直接記すことなく、資料番号を付すことができる。また、資料番号を元に資料リストを作っておくと、欲しい資料を簡単に取り出せる。このリスト作成までが、歴史資料としての保存の作業となる。
保存し直した資料
こうして1つずつ保存し直した資料を、いくつか紹介する。
陵水会館の設計図と、その設計図が入っていた封筒。封筒にはボーリズ事務所と記され、宛先は桑原となっている。この桑原という人物は彦根高商の第1回生であり、九州帝大へ進学した後に彦根高商の教官として戻ってきた桑原先生で、陵水会館の設計に携わっていたことが想像できる。
出征する卒業生に陵水会から贈った武運長久の旗。4枚ほど残っており、そのうち1枚には出征した卒業生の名前が記されていた。おそらく出征を無事に終えて、陵水会に旗を返却したと考えられる。
寮のお祭りである開寮祭のポストカードと、そのプログラム。ポストカードは、生徒が寮での様子を絵に記している。このうち1枚は一昨年、80代ぐらいの女性から陵水会へ寄贈していただいたもの。その女性は、彦根高商当時、彦根町長をしていた平塚町長さんのお子さんだそうで、私が彦根高商について研究をしていることを知り、陵水会へ届けてくださった。
高商時代当時の「陵水会年報」と「陵水会の総会資料(1928~1940年まで綴られている)」。
以上の資料は、主に陵水会が所有していたもの。
体育会が毎年発行している「陵水」。これは一昨年、100年史編纂のために体育会から寄贈していただいた。
寄贈のお願い
各部活動の部室にある資料(例えば、写真やOB会も合わせて発行している部誌)も寄贈してもらえると良いのだが、交渉するまでの時間がなく、偲聖寮に連絡をとる数ヶ月前に大掃除をしたとかでな無くなってしまったことがあった・・。
どんな写真や記録も、それぞれの時代で教職員や学生、同窓会が活動し、生きた証。また、彦根高商や滋賀大学にしかない資料なので、もし部室などに行くことがあればいろいろ探していただき、寄贈していただける場合は、きちんと保存しますので、一度、私までお声がけください。
就職をめぐって(本科)
近年、各高商の就職状況が明らかにされつつあり、ブームとなっている。理由の1つには、国立大学が法人化されたことで、自らの原点を確かめ、その存在をアピールするために、「卒業生がどのような進路を歩んだのか」が、研究され始めていると考えられる。
ただし、これまでの研究は、著名な卒業生の進路であったり、限定的な期間で卒業生の就職を検討するにとどまっている。また、業種や就職後の経路についてはほとんど明らかにされていない。そこまで深く追求されない理由の1つには、資料が残っていないことが挙げられる。
彦根高商の場合
陵水会資料をはじめ、就職についてわかる資料が残されている。例えば、『彦根高等商業学校一覧』(1年に1度、学校の基礎的な情報を掲載したもの)には、1926年~1934年度発行時の卒業生の勤務先が記録されている。また、『陵水会員名簿』は今も5年に1度発行されているが、彦根高商が卒業生を送り出した1927年~1942年にかけては1年毎に発行されていた。
この2つの資料を組み合わせると、彦根高商の本科課程を卒業した全生徒(1回生~19回生)のうち、資料がない19回生以外の生徒、総数2,984名の就職先企業が分かる。また、卒業時の就職先企業だけではなく、卒業した後の動向も1942年までは1年毎に追跡することができる。
5年間追跡した資料
例として、彦根高商1回生の10名を5年間追跡した資料がある。この10名の5年間だけでも、それぞれに就職し、就職後にそれぞれに動いていたことが分かる。
例えば、
1003番:卒業後すぐには就職できなかったが、1年後に出身地の山形で商業学校に就職した。
1006番:日本銀行に就職したにもかかわらず、翌年には九州帝大へ進学した。
1007番:日本陶器、彦根町立図書館と1年ずつ勤務した後、彦根高商の職員となる。その後、彦根高商の職員から教官となり、滋賀大学でも教官を務め、戦後は陵水会の初代理事長を務めた人物。
卒業時の就職
こうして集めたデータを中心に、今回はひとまず卒業時の就職に着目してみる。
高商全体の平均と彦根高商の就職率
高商を出て、サラリーマンになるというのが多くの進路だが、公務員や教員、自営業や進学をする生徒もいた。高商全体の平均と彦根高商を比較すると、彦根高商は未定が多く、官吏や自営が少なかった。彦根高商は全体より、年による増減幅が多く、特に1930年前後の就職率が低く、1932年から1935年にかけ、急に就職率が回復している。1930年前後というのは、1927年に金融恐慌、1929年に世界恐慌が起きた不況の時期。同窓会史に寄せられた生徒の回想にも、「1926年に初めて卒業生を出した彦根高商は歴史が浅く、その時期に就職難の時代に入ってしまい、なかなか就職が決まらなかった(1927年3月)」「卒業1か月前に1人しか就職が決まっていなかった(1930年3月)」ことが語られている。このことが、彦根高商の未定率を押し上げた理由の1つにあったと考えられる。
いち早く就職率が回復した理由
—–海外へ
1930年頃の就職難からの回復は一般的に1937年といわれているが、彦根高商は1932年頃から就職率が上昇した。いち早く就職率が回復した理由は不明ながら、いくつか推察することができる。
例えば、彦根高商は就職先を国内だけではなく、海外、特に満洲まで広げようと教官が率先して動いていた。1932年の新聞報道には、「彦根高商が満洲に先生と生徒を派遣して、視察する予定である」ことが報じられた。これは、就職先を探すための視察でもあり、これ以降もアジアを回る視察が行われた。実際に1933年以降、アジア地域への就職が増加している。
—–業種別の就職先傾向
全ての彦根高商生が就職した企業を業種別に、卒業年毎にまとめると、おおむね1920年代は銀行が多く、1930年代の前半の就職難の時期は商社、就職難が明け1930年代後半になると製造が増えるように変わっている。
就職難の時期の学校新聞には、彦根高商の教官が、生徒に「この学校は近江商人のお膝元、不況といえども安心しなさい」と述べたと残っており、生徒は貿易や商社が中心である近江商人系企業へと就職した。その一方、1932年に同じ教官が、近江商人系企業は限界である。これからは工業会社である。工業智識が必要だと生徒に述べ、実際に、1932年度に彦根高商ではカリキュラム改訂が行われ、原価計算や「工業経営論」など必修化されている。
その製造業への就職も、1926年から一貫して高い割合になっているが、1920年代は東洋レーヨンなどの紡績がほとんどであり、1930年代は日立製作所などの工業に変わっていく。生徒や教官は景気や産業の盛衰に呼応したり、彦根高商という地縁をたどったりするなどして、就職率を回復していったと言えるようだ。
実際に就職した企業名
「彦根高等商業学校一覧」より、全ての彦根高商生が就職した企業について、年代別人数の資料を作成した(上位29社まで)。この中には企業だけでなく、学校や官公吏も含めている。
上位3つを挙げると、1番-(株)丸紅商店、2番-鉄道省関係、3番-高商職員や商業学校教職員、となった。※鉄道省には私鉄の名古屋鉄道や近畿鉄道なども含まれるので、今後修正する予定。
他の企業名としては、近江商人系企業が目に留まる。例えば、5番-日本生命保険(株)、9番-江商(株)、10番-東洋レーヨン(株)、18番-大同貿易(株)、24番-伊藤忠商事(株)、26番-山岡発動機・山岡内燃機(株)。また、4番-三井物産(株)や8番-三菱重工業(株)、13番-三菱銀行、21番-三菱商事などの三菱系企業は、彦根に限らず、高商生を採用する傾向にあった企業だった。
就職に関する傾向はあったのか?
卒業年毎に上から下へ縦に人数を追うと、1926年の欄は上から1名・3名・4名と、各企業、少人数しか採用せず、1学年150~200名いる中で、1社への集中度が小さいことが分かる。次に横に見ていくと、例えば、1番の丸紅では、1931年からずっと継続して採用していること、他の企業も間が空くものの、おおむね継続的に採用していることが分かる。一方、27番の国際通運・日本通運(株)は最初に1名を採用して以降、間が空いて採用していることが分かる。このように、就職をめぐっては年や企業によってかなり様子が異なると言える。
彦根高商の就職の仕組み
年によって様々な企業に、しかも1学年に多くても2桁に届かない人数を、彦根高商はどのように就職させていったのか?その仕組みを、最後に見ていく。
これまで、高商がどのような仕組みで、また、企業とどのように繋がり、生徒を就職させていたのかは、あまり判っていない。唯一ある研究発表は、(彦根と同時時期に設立された)和歌山高商を対象としたもの。和歌山高商では就職支援課を作り、企業へ推薦する生徒をまずは学校内で選抜していたと指摘されている。
彦根高商では学校内選抜の史料は無いが、学校新聞によって、学校と企業の間の「生徒の就職を巡る流れ」や当時の状況が判った。
—–学校と企業の関係
まず、彦根高商が企業へ就職依頼状を送り、ほぼ毎年、校長先生や就職担当の庶務課の先生が企業を訪問し、就職の依頼をする。その後、彦根高商生を就職させても良いという企業からのみ学校へ申込書が届く。
—–彦根高商の庶務課
企業からの申込書は廊下に貼り出さた。生徒はそれを見て、希望する企業を彦根高商の庶務課という組織に伝えた。庶務課では、生徒が希望した企業へ校長の名前で推薦状を送り、その後、企業と生徒が初めて接触した。
—–採用選考の基準
接触後、すぐ内定とはならず、面接や試験があった。この時期、どれほどの割合で採否が決まったのかは分かっていないが、おおむね性格、成績、体格や健康がチェックされたようだ。戦争が近づくにつれ次第に、正確や成績よりも体格や健康を重視して採否が決まったと言われている。
※就職難の時期、彦根高商は2,500余りの依頼状を企業に送ったにも関わらず、企業から申し込みがあったのはたった112ヶ所であった。また、校長や教官が何度も同じ企業に足を運んだ。一方、人材難の時期(景気が良くなると)は、彦根高商から早目に依頼状を送ろうとしていたけれど、それより早く企業から申し込みがあった。
むすびにかえて
彦根高商独自の特徴
特徴を出すには他の高商生の就職と比較しなければならないが、今回は、彦根高商が地域の力によって作られたことを踏まえ、地域への貢献という視点から特徴を掴んでみる。
先に説明したように、彦根高商生の就職先上位企業には近江商人系企業が多い。それらの企業には、間は空きながらも継続的に長期に渡って就職していた。それは、1930年代に彦根高商の意識が工業系会社の就職へと変わり、教官がこれからは近江商人系企業は限界だと述べる中でも、変わらない様子だった。また、『入学指針』という受験希望者が読む雑誌には、彦根高商への採用申込み企業として、丸紅商店・伊藤忠商事・江商など近江商人系企業しか挙がっていない。
これらのことから、彦根高商の就職には近江商人系企業が欠かせない場所であったと言えるが、もう少し深くみてみると、近江商人系企業へ就職した生徒のほとんどが滋賀県出身であったことが判った。つまり、『滋賀県出身者→彦根高商→近江商人系企業へ就職』というルートが築かれていた。更に、近江商人系企業へ就職した者のその後の足取りを追うと、ほとんどがそのまま勤続していた。
実は、勤続するというのは、彦根高商生の多くとは異なる様子だった。転職の様子は別の機会へ譲るが、彦根高商生が就職してからの動向を追跡すると、約6割の生徒が5年以内に転職をし、転職をした者のうちの約半分が転職を繰り返す傾向にあった。滋賀大生の転職は今でもあるが、彦根高商当時の転職の多くは、「海外へ行く」「業種を時代に応じて変える」等、冒険的な転職と言える。
このような流動的な状況の中でも、近江商人系企業へ就職した者が務めあげたことは、『滋賀県の青年の中から「近江商人系企業へ就職し勤めあげる者」を彦根高商が養成していた』と言える。但し、このルートの恩恵を受けた生徒は、滋賀県出身者の中でも僅かであった。1学年のうち、滋賀県出身者が占める割合は約4割。その中でも、このルートに乗れたのは約2~3割だったのである。
残る多くの生徒の就職の特徴は、今後検討する。
(其の参:完)
まとめ記:横井隆幸(大33)
※本報告は今井綾乃「彦根高等商業学校生の修学と進路の動向」2014年度滋賀大学大学院経済学研究科博士前期課程提出修士論文を参照