第21回陵水亭懇話会

8月22日(土)18時30分より、第21回陵水亭懇話会が開催されました。今回は、新型コロナウィルス感染拡大防止のため、初めてのオンライン開催となりました。参加者は10名でした。

【演題】『来る100年と次の100年に向けて―彦根高商の日々を知る―』
其の四 新聞報道にみる彦根高商(ゴシップ編)

第21回陵水亭懇話会のレジュメを見る

講演者自己紹介を見る

感想寄稿

地域の気持ち

皆さんは、『青い山脈』という映画をご覧になったことがあるでしょうか?
彦根フリークであれば、もちろん・・1963年版(吉永小百合版)のことです。今まで5回映画化されている中で三度目の映画化作品です。
※1990年代以降のカラオケの画面に現れることのある映像はこの作品らしいです

原作は、1947年(S22年)に新聞連載で評判になった石坂洋次郎の小説。
この映画は1963年作。ストーリー上は、あくまで架空の、古い常識にとらわれたどこかの城下町という設定ですが、彦根城や「彦根」と表示された街並みが写っています。彦根ロケでは連日、映画スターが街中で撮影していたでしょうから、当時は大騒ぎだったでしょう。

女子の舞台=新制・女子高等学校はお隣の西中ですが、男子(大学生)の舞台は滋賀大!当時の偲聖寮が写っていたり、ラグビー部の練習風景は滋賀大のグランドで当時のラグビー部員を交えてだったり・・。見どころ満載の作品です。あくまでも映像作品ですが、当時の様子や人々の気質のあり方がよく分かります。

さて、今回のオンライン講演が取り上げた時代は、更に昔の1928~1940年。新聞記事だけで当時の雰囲気がどこまで分かるのだろう?という興味もあり参加しました。取り上げたのは6つ(7つ)の記事だけですが、その選択の妙というか・・古臭い昔の雰囲気というよりは、今の我々にも共通する青年たちの営みを垣間見て、新鮮な驚きを覚えました。時代によっても変わらない気持ち、地域に根付いている気持ちを、講師の解説の中に感じました。

例えば自分は、大学OBオケに加わっており、演奏会の前にはチラシ配りをします。地域に根付いている気持ちを感じるのは、その時です。与えられた枚数のチラシをポスティングするだけですが、すれ違う住人の方に手渡しすると、旧市街では「滋賀大の・・」と言うだけで、「ああ・・」と快く受け取っていただけるのです。まさに神通力!先輩方の恩恵をいただいております(感謝)。

何度も映画の舞台として使われている魅力ある街並みと、そこに息づいている地域の皆さんの気持ち。その雰囲気はいつ頃から醸し出されたのか?その片鱗を教えていただいた講演でした。

横井隆幸(大33)

レジメに沿ってまとめ

これまでの内容を、簡単に振り返る

第1回目:「彦根高商の始まり」

レジュメの表は彦根高商の簡単な歴史であり、彦根高商の始まりを1923年の第1回の入学式としてある。しかし、物事の始まりは描きたい歴史によってどこにでも置くことができる。

彦根高商の歴史
創立座談会原稿

これまでの懇話会では、その始まりを彦根への高商誘致運動においたが、その理由は「地域の人々の寄付」によって誘致が決まったためである。
当時、高商を彦根に設立するために国から求められた費用は44万円(現在の2億2000万円)。そのお金は、滋賀県出身の有力者だけではなく、彦根の一般の人からの寄付によって賄われ、女性からの寄付もあった。滋賀大学経済学部は国立ではあるが、地域の力によって始まったと言える。

第2回目:「カリキュラムの特徴」

彦根高商のカリキュラム

その特徴とは、「哲学概論」と「文化史」を「必修科目として開講し続けた」こと。これは他の高商にはみられないことで、特に戦時中になるとほとんどの高商がほぼ同じカリキュラムを展開するなかでも、彦根高商はこれら2つの学科目を開講し続けた。
その背景には、当時の社会や企業からの(技術より人物を育てる)要請、彦根という場所柄を背景にした彦根高商の方針がある。城山や琵琶湖、中江藤樹や井伊直弼当等を輩出した地という特徴から、人格を陶冶できる場所にあるということで、サラリーマンとしての良い人格を養成する目的のカリキュラムであった。

第3回目:「卒業生の就職について」

彦根高商生の就職

彦根高商生は、社会の動きや産業の盛衰にあわせて職業を選択した。主にサラリーマンになっていったが、彦根や滋賀という地縁を活かして、近江商人系企業への就職した人が多かった。

3回に渡って紹介した内容に共通すること

捨てるに捨てられない「古いモノ」

彦根高商の資料は今まで、大学では棄てるに捨てられない「古いモノ」であった。例えば、写真の陵水会館設計図(設計:ヴォーリズ)も、ただ古いモノとして置かれたままだった。これらの資料は、100年史編集を機に保存や展示ができるようになることを(個人的に)望んでいる。
※これらの資料は、現在は陵水会館とは別の場所に仮置きしている。

第4回:「新聞報道にみるゴシップ記事」

これまで公に明らかにされてこなかった、彦根高商生のゴシップを取り上げる。このテーマを選んだ理由は、簡単にいえば、これまで誰も明らかにしてきていないからである。

廊下に貼り出させた新聞を不安そうに読む彦根高商生

彦根高商の様子を知ろうとする時、まずは滋賀大学経済学部が発行してきた記念誌や同窓会史を見ることになる。ただ、それら記念誌は、一般的には自らの歴史を誇るものであり、地域で起きた彦根高商生の事件・事故は扱っていない。そこで今回は、一般に発行されていた新聞記事に載ったゴシップを取り上げて、彦根高商生の学生らしい彼ら本来の姿を見てみる。

今回見ていく新聞について

調査課所蔵印

今回参照する新聞は大学にある資料で、滋賀大学「経済経営研究所」が所蔵していたもの。この経済経営研究所は、彦根高商開校時(1923年)に設置された「調査課」を原点としており、生徒や教官の調査研究のために沢山の資料を収集していた。そのため、多くの彦根高商の資料が今でも沢山残っていて、それらをホームページ上でも公開している。※調査課ホームページは下記参照

滋賀版

調査課が収集した資料には、中外商業新報、日刊工業新聞等もあるが、今回は「大阪朝日新聞」「大阪毎日新聞」を取り上げる。時代は、1928年~1940年頃。その中でも、滋賀県の情報を集めた滋賀版を辿ってみる。
※写真の資料は、大阪朝日新聞、大阪毎日新聞の滋賀版のみを製本したもの

所蔵する新聞の特徴

大阪朝日新聞

経済経営研究所が所蔵する大阪朝日新聞、大阪毎日新聞には、ある特徴がある。それは、『原紙である』という点。現在、戦前の新聞は公立図書館で閲覧できる場合もあるが、一般的にはデジタル化されたものしか提供されない。滋賀県の公立図書館には、新聞の原紙が一切残っていない。愛知県でも新聞閲覧を希望すると、デジタル化したものを出される。

原紙で残っている図書館もごく僅かあるが、時代が進みデジタルされたり、原紙が劣化したり、保管場所がなくなったりして、次第に各図書館では新聞の原紙を廃棄するようになっている。そのため、原紙そのものが現存することは、とても貴重と言える。新聞は読んだら捨てたり何かに使ったりするもので、残しておいても日焼けしたり汚れたりするが、100年後の私たちが見ると、そんな新聞も歴史史料のひとつであることを実感できる。

彦根高商生のゴシップ報道

このような歴史や特徴を持つ2つの新聞から、彦根高商生のゴシップ報道を6つ見ていく。まずは、「地域社会が彦根高商生の存在や風紀に関心を寄せていた」ことが分かる報道を2つ。

■停学処分の波紋

【1つ目の報道】
[事件の概要]『大阪朝日新聞』1928年昭和3年12月5日付記事

停学処分の波紋

・彦根高商の3年生5名が遊郭へ行ったことに対し、・学校は、生徒の停学を命じ、・父兄を学校へ電報で呼び寄せた。

・生徒の中には処分に不平不満をもつ者がいた。なぜかというと、・学校が飲食店に偽名で調査をしたため。また、・御大典(昭和天皇即位)祝いの最中、父兄を電報で呼び寄せたため。・不満を持ちながらも、生徒らは自浄作用をもたらす学生会の結成を決定した。

但し、学生会の正式結成までには紆余曲折があり、新聞も続報として伝えている。
いくつかあった続報のうち、2つ紹介すると・・
[続報その1]「大阪朝日新聞」1928年12月6日付記事

教授会鳩首協議

・講堂に生徒500余名が集合し、・4時間にわたり学生会の結成について議論した。そして、・「自治的精神を基調として向上発達を目的とする」案を作成し、教授会へ提出した。

[続報その2]『大阪朝日新聞』1928年12月9日付記事

趣旨は賛成だが

・提出された案に対し、教授陣が何度も議論し合った。・教授会では、学生会の結成は賛成。ではあるが、・生徒が一丸となって、良くない方向へ進んでは困ると懸念。

[続報が何回か出た後に]
・3度の教授会を経て、年末に学生会の結成が許可された(1928年12月27日)。

講堂に生徒500名4時間議論
1932年3月卒業アルバム「学生総会」より

現在の学生会に至る起源が、この遊郭事件にあるとも考えられる。

■漕艇部事案から始まった生徒の団結

1つめの記事と同様、新聞に幾度と報じられ、人々の関心が寄せられていた彦根高商の事件。
【2つ目の報道】
[事件の概要]『大阪朝日新聞』1932年10月4日付記事

漕艇部事案から始まった生徒の団結

・彦根高商の漕艇部9名が関西漕艇選手権大会の練習のため授業を1週間欠席。・学校は、彼らを懲戒処分とした。

・反発した漕艇部全員が脱退届を部長教授に提出。・他部活動の幹事や部長30名も総辞職を決意し、懲罰緩和の嘆願書と辞表を校長に提出。・学校は試験が近いことを理由に、ひとまず保留とした。

同じ記事に掲載された、生徒主事の先生の話によると、
・漕艇部選手には(授業を休まないよう)、事前に注意していた。・彦根高商には、特別制度(大会出場者の授業欠席を認める選手制度)はない。・そのため、やむなく処分した。

[続報その1]『大阪毎日新聞』1932年10月6日付記事
大阪毎日新聞から(2日後に)出た続報によると、
・学校と先輩が、漕艇部選手や他部活動の幹事を慰撫した結果、・生徒は、認識不足であったとの見解。・辞表を撤回し、円満解決。

漕艇部
1932年3月卒業アルバムより

同じ記事の最後に、
・学校に不満を持つ硬派な生徒が何人かまだ残っている。・彼らが外部のテロ系組織と結びあう懸念あり。そうなると、・就職率も全国1位を誇る校史に汚点を印す。という内容で、・学校への注意を呼び掛けていた。

■地域社会から影響を受ける風紀

「彦根高商とその地域が繋がりを持っていた」ことが分かる報道。
【3つ目の報道】
[事件の概要]『大阪毎日新聞』1930年7月5日付記事

近江帆布の彦根工場争議

・当時、彦根駅近くの近江帆布会社彦根工場では頻繁に労働争議があった。彦根署は、・彦根高商3年生の1名が、繊維労働組合幹部と親交を持ち、・京都から争議に来た須田という人物を下宿先に泊めたことを知り、・須田逮捕のために彦根署が生徒の下宿先へ行くと、・そこに争議のパンフレットが多数置いてあった。・生徒は検束処分となり、翌朝に放還された。

同じ記事に掲載された、校長と生徒主事の教官のコメントによると、
・生徒の下宿先にあったパンフレットは、生徒が印刷したものではない。・直接、争議には関係していなかった。

■地域へ与える問題

次の2つの報道では、「彦根高商生が地域へ頻繁に出向いていた」ことを知ることができる。
【4つ目の報道 その1】
[事件の概要]『大阪毎日新聞』1931年5月10日付記事

彦根高商生の食費不払い

・彦根高商生の「食費不払い」がひどいので、・彦根高商附近の食堂12軒が、・「不払い高商生をロックアウトする」ために「食堂組合を結成した」。・学校附近だけでは効力がないので、彦根全町の食堂に加盟させる予定であり、・そうなった場合、生徒に恐慌が起こるだろう。

【4つ目の報道 その2】
[事件の概要]『大阪毎日新聞』1937年4月13日付記事

彦根高商生暴行事件

・3年生1名が、袋町で泥酔、徘徊している最中に、・通り合わせた理髪職人をビール瓶で殴打、全治10日の怪我を負わせた。・駆けつけた彦根署巡査にも殴打し、全治1週間の怪我を負わせた。・この記事では、彦根高商生による暴行事件が繰り返されていると指摘。そのため、・彦根署から学校に警告を発することとなった。

彦根高商生が外出してお酒を飲み、楽しい学生生活を過ごしていた様子が分かります。

■彦根高商を目指した者による事件

悲しい事件の報道。
【5つ目の報道】
[事件の概要]『大阪毎日新聞』1934年2月13日付記事

彦根高商を目指した者による事件

・彦根高商へ入学手続きのため、三重の中学生がつるや旅館に宿泊した。・旅館には「文房具を買ってくる」と言って出かけたが、・彦根駅の踏切で列車に飛び込んでしまった。・この中学生は、過度の勉強による神経衰弱症であったとされた(高等教育への入学はそれほど大変なことであった)。

彦根高商生の投稿風景
1930年卒業アルバムより
彦根高商生の登校風景

・この記事によれば、受験生は受験日の前にも、彦根の宿屋を利用していたことが分かる(彦根高商が地域へ経済的利益をもたらしていたと言える)。

■お騒がせ

【6つ目の報道】
[事件の概要]『大阪朝日新聞』1932年10月25日付記事

登山で行方不明となった彦根高商生

・1年生1名が霊仙嶽(りょうぜんだけ)へ登山し、行方不明になった。※霊仙嶽:現在の米原から醒ヶ井あたりにある山。・生徒が下山しないことから、翌朝、山岳部や地元の青年団などで捜索を始めたところ、・生徒は正午に、何知らぬ顔で下山した。・生徒によると、道に迷い約7時間歩いたが、最終的には山頂に着いた。ただ、・日没になったため、熊笹に寝転んで一夜を明かし、・下山した際には、ふもとの民家で朝食をいただいた。

この行方不明事件により、彦根高商の山岳部は、霊仙嶽に案内札を立てた(この案内札は今もあると聞いたことがある。ぜひ探してみてください。

まとめにかえて

彦根高商生をめぐる事件・事故の「新聞報道」から、次のことが分かる。
○学校史では知ることのできなかった事件や事故を知ることができる。○地域と高商が深く関わり合っていたことも分かる。○今回は、彦根高商がかつて収集していた新聞の原紙を活用。新聞は歴史資料である。

質疑応答

以前の講演で、彦根高商の特徴である2つのカリキュラム「哲学概論」「文化史」は、いつ頃まで必修科目だったのか?当時の特徴は、今のカリキュラムにも何らかの形で残っているのか?
戦争の影響で(1942年に)全国の高商は同じカリキュラムになったが、彦根高商は「哲学概論」「文化史」を必須科目としていた。他にはない特徴と言える。しかし、戦争がはじまると、『彦根工業専門学校』に代わってしまいカリキュラムは全く変った。滋賀大学になってからのカリキュラムにも、当時の特徴が残っているとは認められない。
古い資料の保存について。図面などの大きな用紙には折り目が付いている。綺麗にできるのか?
陵水会館の設計図は、折り畳んで保存されていたので折り目が付いている。学芸員の資格を取った時に学んだが、当て布をあててアイロンをかければ、修復は可能。但し、資料によって、できる場合とできない場合がある。
最近、一橋大学で同じような話をたまたま聞いた。
一橋大学も高商が母体。一番早く設立された高商で、多くの高商は当時の東京高商をモデルにして、カリキュラムを作成したり、教育活動を展開していった。
当時は「ツケ」で食べられたのか?現金ではないですよね?
実態はよく分からない。今回の記事によれば、地域に悪いイメージを与えたようにも読めるが、古くから住んでいる方からは「彦根高商生はエリート」「自分の家に間借りしていた子には、婿にならないかと誘った」等、伺っている。遊びすぎた人はいたかもしれないが、概ねの印象は良かったようだ。
自分の40年前の記憶でも、滋賀大生は町の人から大事にされていた印象がある。皆さんから注目を浴びているがゆえに、新聞のゴシップ記事になったのかもしれない。最近でも、学生が大切に扱われている印象はあるか?
自分には思い当たる記憶もないが、最近では授業の一環として「学生が商工会議所へ行って企業とコラボレーションしたり、意見を言ったり」「データサイエンス学部はそのようなことをよくしているらしい」ので、これからはまた新しい展開があるかもしれない。
資料保存について、大学や陵水会の関わり方はどのようになっているのか?
大学は、国から予算が付かないと何もできないということで、経済経営研究所が資料をデジタル化したことも、大学にとっては異例中の異例だったと聞いている。滋賀大には資料館もあるので、そこで資料保存すれば良いのかもしれない。しかし、歴史資料には「作成した人や団体が保存・公開する」という原則がある。その理由は、後年取り扱う人(団体)の都合によって扱われる(最悪破棄される)可能性があるから。保存するだけなら、今までのようにどこかに放置されるだけなので、陵水会の資料は陵水会が整理・保存・展示したり、OBや研究者へ貸し出すことが望ましいと個人的には考えている。
100周年を機に資料が集まり保存整理するような場合、費用はどの程度必要になりそうか?
お金のことはよく分からないが・・現在ある資料は、経済経営研究所に仮置きしていただいている。資料が劣化しない特別な段ボールに入れて積み上げており、その段ボールも経済経営研究所から拝借している。その段ボールの費用と置き場所さえあれば、とりあえずの費用はかなり抑えられると思う。それを展示するようになると、展示用ケースや場所代、運営費等の費用がそれなりにかかるはず。
資料を公開する意味は?
作成した人(個人)が生き続けて保存できれば良いが、いつかは・・。公開していないと、誰かに使って貰わないと「その資料がそこになぜ保存されているのか」も分からなくなる時が来る。保存されたまま、そこに置かれたままでは、いつかは「古くて捨てるに捨てられないモノ」に戻ってしまう。できれば、陵水会館が耐震工事をする折には、少しでも展示スペースを設けてもらえるとありがたい。外国の美術館や博物館では、「展示しながら保存する」ことが流行しているようだ。先の青焼きの設計図も、公開しながら保存する方法が考えられる。
ヨット部が創部70周年を迎えるにあたり、過去の資料も集めている。寄贈すれば保存して貰えるのか?
100年史に関連して寄贈していただける資料は、陵水会事務局に保存していただけることを確認している。100年史編纂にあたって、資料の規定を作りつつある。但し、効力は編纂委員会に限られるので、将来的なことは陵水会の事務局や理事会にも諮る必要がある。まずは、寄贈いただきたい。
ホームページにも公開されている「陵水」等の資料をデジタル化した方法は?
経済経営研究所の方が、写真撮影してPDF変換した。専門の業者に依頼すると、もっと綺麗に仕上がる(有料)。
「34回生(1986年卒)が講堂で卒業できない」という情報が漏れ伝わってきたので、署名運動をして新聞に投書。その結果、従来と同じく講堂で卒業式を迎えられたエピソードがある。「事前に何も知らされることなく大津市民会館へ行ってもなぁ」「彦根は彦根で、大津は大津で卒業したい」と、1985年8~10月の間に約1,300名から署名を集めて、彦根にある朝日新聞や京都新聞に投書した。新聞記事は保存していない。
100年史には、そういう話も載せたいと希望している。100年史編纂にあたり、必要があれば新聞は必ず参照するので、記事を見つけたら報告します。
100周年原稿を募集するのは大変では?本日記事のような話は、今の人からも「若かりし頃の武勇伝」として(酒の席で)よく聞く。そのような話題でも良いからと、改めてアピールしてみては?
よろしくお願いします。

参考

「経済経営研究所」ホームページをご紹介

「経済経営研究所→所蔵資料→デジタルアーカイブ」という場所では、所蔵資料を写真で公開している。
■TOP ≫ 経済経営研究所(ebrisk) ≫ 経済経営研究所
https://www.econ.shiga-u.ac.jp/ebrisk/
■TOP ≫ 経済経営研究所(ebrisk) ≫ 所蔵資料
https://www.econ.shiga-u.ac.jp/ebrisk/2020/Collections/
■TOP ≫ 経済経営研究所(ebrisk) ≫ デジタルアーカイブ
https://www.econ.shiga-u.ac.jp/ebr/10/3/6.html

デジタルアーカイブにあるいくつかの項目のうち、彦根高商に関する資料は「石田記念文庫」から「彦根高商卒業アルバム」までの4つ。このうち、例えば「彦根高商刊行物」では、陵水会が発行していた「陵水(第1号~第20号)」という記事を閲覧でる。これ以前の同窓会報は、学生が普段発行していた学内報と併せて発行されており、同窓会報として独立発行されたのは、この第1号(昭和9年)からになる。

第1号を見ると、表紙は昔の彦根高商の写真。学校内から正門に向けて撮影しているので、左側に講堂が、右側に正門も見える。続けて、目次をめくり1ページ目(データでは3ページ目)を見ると、当時の第二代目校長(矢野会長=矢野貫城氏)の写真と挨拶が載っている。当時は、校長先生が同窓会の会長も務めていた。そのあとのページでは、いろんな先生の論壇が紹介されています。文字ばかり続きますが・・・。

後半になると、51ページ目(データでは53ページ目)から「母校学内通報」という学校の様子を伝えるページもある。例えば、写真の先生のお宅でいろいろなお話を伺ってきた。いろいろな先生の現状の記録。部活動の報告。年に一度開催される大運動会についての記事(グランドでパン食い競争する写真)。等々。

100周年に向けた他大学や同窓会の動向

大学や陵水会にも沢山の資料が残されている。今まで誰にも見向きされてこなかった資料をどのように扱うべきか考える参考として、他の大学や同窓会の動向も調べている。

■『小樽商科大学』[同窓会名:緑丘会(りょくきゅうかい)]
小樽高商を母体とした小樽商科大学は、100周年をかなり前に迎え、100年史編集は大学が主導した。集まった資料等は、大学図書館で展示、つまりひとつの組織の中で保存されている。OBや一般の方へ展示するだけでなく、研究者に資料貸出しもしている。「武運長久の旗」や「先生の肖像画」は陵水会にもあるので、今後どのように対応されるのか気になっている。
https://library.otaru-uc.ac.jp/exhibition/#exhibition_01

■『大分大学経済学部』[同窓会名:四極会(しはすかい)]
大分高商を母体とした同窓会は、陵水会よりも1年前に100周年を迎える。それに向けて、同窓会も準備を進めているとのこと。「100周年へ向けてのリレーメッセジ」という企画があり、同窓会のホームページにOBが寄稿できるようになっている。100周年史は編纂しないようだが、いろいろな事業についても公開している。集まった資料を、今後どのように扱っていくのか注目している。
https://www.shiwasukai.com/anniversary/

(其の四:完)

まとめ記:横井隆幸(大33)

Print Friendly, PDF & Email